世界ふしぎ発見!「徳川家康 影の軍団 三人の天下取り請負人」1月16日放送されます。
徳川家康を影で支えた一人、南光坊天海。
その人物と偉業にはロマンを感じられずにはいられません。
歴史の逸話には、ノンフィクションとフィクションが混同し、記述に引きずら定説となってしまうことが多いものです。
記述として残した側の都合で語られることが殆どで、消えてしまった事実は取り戻すことが難しい分野ですね。
それだけに、歴史を紐解くことは楽しいものです。
ここでは南光坊天海についてふれてみたいと思います。
南光坊天海は明智光秀?
『南光坊天海は明智光秀だった』という説があります。
武家の社会では、些細な失態でも永久に家族の血を絶やすことになります。
家の存続が最優先だった戦国時代、一時的な感情や身勝手な野心で謀反を起こすのはありえないことです。
天海=光秀説
博学で思慮深い明智光秀が、天下を取れると思いつきで本能寺のクーデターを起こしたとは考えづらくありませんか。
明智氏の子孫が今もいらっしゃることや、明智氏のゆかりの人物が徳川幕府で活躍していることから、歴史の逸話の影に本当の真実が隠されているような気がしてなりません。
天海と光秀が同一人物と考えられる下記の理由が考えられます。
- 日光の明智平を命名したのは天海(これは確かな事実のよう)
- 日光東照宮に明智家の家紋がある(家紋だけでは判断できないが)
- 春日の局は光秀とはゆかりの人物(福は光秀家臣、斉藤通三の娘)
- 天海と光秀の生きた時代が同じ(でも、長寿に無理がある。この時代の年齢は正確ではないため不明)
- 明智光秀の首を確認したかどうかわからない。(さらし首になってない)
少し無理な部分もあるようですが、歴史ファンとしては魅力的な説ですね。
光秀にもっと興味のある人は、明智光秀の子・於寉丸〈おづるまる〉の子孫の明智憲三郎氏著書の、「本能寺の変431年目の真実」(文芸社)をおすすめします。参考にどうぞ~
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天海=明智氏縁者説
上記のことをふまえて、無理な部分を修正すると光秀のゆかりの者という説もあります。
筆跡が光秀と天海のものと似ているので、甥の秀満ではないかという推測も。
天海については「南光坊天海の研究」という学術書を仏教学者宇高良哲氏がかいていらっしゃいます。
参考まで~
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☆結局、詳しいことはよくわかりませんが歴史へのロマンは、わからなければわからないほど深くなるものですね。
江戸を作った影武者・南光坊天海
徳川家康は幕府を開くにあたり、南光坊天海に助言を求め江戸を選んだとされています。
天海は家康の命によって、伊豆から下総までの関東一円の地層を調査したといいます。
南光坊天海は「四神相応」の考え方を使って、江戸の地を選んだということですが、「四神相応」とはなんでしょう。
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天海の江戸設計は陰陽五行説から
「四神相応」とは、古代中国の陰陽五行説にある考え方で、「東に川が流れ、南に湖や海があり、西に道が走り、北に高い山がある土地は栄える」というものです。
東の隅田川、南の東京湾、西の東海道、北の富士山が四神相応にぴったりあっているというものです。
実際は少し方角がずれていますが、富士山をあえて北とみたてて陰陽五行を当てはめています。
陰陽五行説で、中国武術や健康法の考え方も、強さを求めるときは北を向いて修行し、健康を求める時は南をむいて修行します。
真北から112度もずれているが北の方向とした富士山に強さを求め、徳川幕府の安泰を願ったのではないでしょうか。
陰陽五行説だけでなく、富士山の山岳信仰や岡崎の方向などを、考慮されたものではないかと思うのですがいかがでしょう。
東京と富士山を結ぶ延長線に岡崎があり、江戸に暮らす人が朝に夕に富士山を拝む先に岡崎があるというのは面白いですね。
江戸の都市計画に約50年
天海は、江戸の都市計画の初期から完成まで、思想・宗教的な面で設計に関わっていたとされています。
それには約50年を費やしたとか。
江戸城の鬼門鎮護を考え次のような工夫をしています。
- 江戸城の内部や掘を「の」の字型の構造
- 敵を城に近づけにくい工夫
- 城を中心に「の」の字の方向で江戸が発展するように
- 船で物資を運搬を考える
- 火災発生時の類焼を防ぐ
- 堀を作ったときの土砂を海岸の埋め立てに用いる
このような天海の考案が、現在の東京にも生きているのですね。
平和な国造りに尽くした天海。
その人が明智光秀だあろうとなかろうと、今の東京の礎を築いたと思うとますます興味がわきますね。